信州で育んだ鷹揚さで築いた私のキャリア

中村 誠 (畜産学科 S62)

                                   

信州で身についた「なんとかなるさ」が私を支えた

信州大学での4年間は、学問だけでなく、私の人生観に深く影響を与えてくれた時間でした。自然に囲まれた環境でのびのびと過ごすうちに、「なんとかなるさ」という楽天的な気質が自然と身についたように思います。これは、私がその後、変化の激しい製薬業界の中で幾度となく大きな壁に直面しながらも前に進み続けるうえで、かけがえのない支えになってきました。

1987年、私は日本レダリーという日米合弁の医薬品会社に営業職として入社しました。就職活動に強い意欲があったわけでもなく、先輩がいた業界に何となく惹かれて受けてみた会社から内定をもらい、他は受けずに決めてしまったというのが正直なところです。

とはいえ、当時の製薬業界の営業は、現在では考えられないほど過酷な職種。朝早くから夜遅くまで病院を回り、休日はゴルフや講演会の手伝いなどでつぶれる毎日。付き合っていた彼女*にも「あなたには絶対向いていない」と止められましたが、私は「慣れればなんとかなるだろう」と、これまた楽天的な気持ちで受け止めていました。恩師の辻井先生からの「あんたは人当たりがいいからクセの強い顧客には好かれるかも。研究職よりは向いてるんちゃうか」という後から振り返ると的を射ていた励ましも背中押しになりました。

        *のちの妻で旧姓は池田美和。当時は同級で農芸化学科でした

NO」から始まったキャリア

新潟に配属され、医薬品営業の現場に出てすぐに、私はその厳しさを痛感しました。担当となったのは、これまでほとんど自社の営業が訪れたことのない病院ばかり。つまり“開拓”が求められていたのです。案の定、「拒絶」と「無視」の毎日でした。

「今使っている薬で十分効いてるから、アンタのところのはいらないよ」
「今さら来たって、誰も相手にしないよ」
「症例があれば使うけど(ないけどね)」

どこに行っても、断られる、無視される、自分を否定される。学生時代には経験しなかった挫折に直面し、自信も、やる気も、毎日のように削られていきました。自分は営業に向いていない、人から好かれるタイプじゃない――そんなふうに思い詰めていたある日、転機となる言葉に出会いました。

「営業は断られた時から始まる」

あるセミナーで聞いたこの一言は、目から鱗が落ちるような気づきを与えてくれました。断られることは失敗ではなく、むしろ顧客と関係を築くスタート地点。ニーズを知るチャンスであり、自分の存在価値が発揮される場面だと考えれば、むしろありがたいことなのだ。

「断ってくれてありがとう」――そんなふうに思えるようになると、不思議なほど心が軽くなり、行動も前向きになっていきました。

顧客の「NO」の裏にある事情を掘り下げ、何度も訪問することで、少しずつ態度が和らいでいくのを感じるようになりました。そして仕事に対する見方が180度変わり、どちらかと言えば内向・思索的だった性格や態度が自分でも信じられないほどに外交・実践的になりました。そして「営業は断られた時から始まる」は、「逆境は機会への扉」とばかりそれ以降の私のキャリア全体において様々なバリエーションとなって息づくものになったのです。

マーケティングと英語との出会い

社会人5年目、営業活動をより効率よく行いたいという思いから、マーケティングへの関心が高まっていきました。様々なデータの分析から市場の変化を予測し、先を見越して最も効果的な打ち手を講じるという戦略的思考に大変惹かれたのです。同時に、新潟大学の留学生と親しくなったことで、英語でのコミュニケーションの面白さにも気づきます。「コミュニケーションするための英語」を学ぶ楽しさに目覚め、複数の英会話教室に通い、個人トレーナーもつけて本格的に取り組みました。英文法も好きになり、当時のTOEICで900点を超えるのも1年はかかりませんでした。

1995年、そんな中アメリカの親会社が大手製薬会社に買収され、東京本社には本社から外国人経営陣が続々と着任。社内書類や会議に英語が増えた頃、マーケティング部門から「若手で営業経験があり、英語ができる人材を」と声がかかりました。まだマーケティングや英語の実務経験ゼロです。それでも「まあ、やってみれば何とかなるだろう」と、仕事の場を東京に移し家族と共に千葉に移住しました。

マーケティングは理論も重要ですが、立てた戦略を実行に移すには、会社のあらゆる部門の巻き込みが非常に重要になります。研究、製造、渉外、広報、人事、経理――多くの部署との連携を通じて、「会社」という仕組みの全体像が見えてきました。また、自分の部下ではない方々にリーダーシップを行使して物事を進める術を学びました。

さらに1999年、会社がアメリカの大手製薬会社のワイス社の傘下に完全に入ると、海外とのやり取りも増え、「もっとグローバルな環境で働きたい」という気持ちが膨らんでいきます。

海外赴任、そして視野の拡張

そんな矢先、ワイスのアメリカ本社が国外の社員を一定期間受け入れる人材育成プログラムを開始。自らもそのような経験のある外国人上司の推薦を受けて、日本からは私がその第一号に選ばれました。

2000-2001年、家族4人でペンシルバニア州へ赴任。慌ただしくも刺激的な日々の中で、本場の医薬品マーケティングを実地で学び、文化や価値観の違いに向き合いながら働く経験は、私のキャリア観を大きく広げてくれました。妻とともに、現地のマンドリンオーケストラ(信州大の時から続けていたのです)にも入会し、音楽でも新たな仲間と出会いました。仕事も私生活も、すべてが成長の糧でした。アメリカ滞在で英語が一層上達したかといえば、あまりそんな感はないのですが、とにかく発音には気を付けるようになりました。日本に頻繁に来るアメリカ人は日本人の英語発音になれているので、なんとなく言いたいことが通じていたのですが、日本人と話したことのないアメリカ人、例えば子供の小学校の同級生のお母さんには「Car」ですら通じないこともあったからです(私のRの発音がうまくできていなかったのですね)。

変化の中で、新たな立場へ

帰国後は、本場で学んだマーケティングと築いたネットワークを活かして、新薬導入の最前線に立ちました。信州大学医学部にも仕事で訪問することがあり、時々に伊那キャンパスにも立ち寄りましたが、キャンパスの明るい雰囲気と学生の住環境の充実ぶりとに驚かされました。

2009年、400人超の部下を抱えるリウマチ事業本部長となり、まさにこれから、というタイミングで起きたのがファイザーによるワイス買収でした。

混乱の中、リーダーとして仲間を落ち着かせながら、ファイザーの中で自らの居場所を切り拓きました。それまでのキャリアを活かして病院薬のマーケティングの責任者から、眼科領域の事業部長、最終的には当時の最年少の取締役執行役員として、世界最大手企業の中で、戦略立案から経営判断や労働組合と協業など多くを学ぶことができました。さらにこの時に経済同友会に入会し、業種を超えて様々な経営者の方々とのネットワークを築くことができました。

とはいえ、海外出張は年に十数回に及び、家族と過ごす時間が減っていくことにもどかしさを感じ始めます。妻にも迷惑をかけっぱなしでした。もっと小さくても、自分の手で動かせる組織で働いてみたい。そんな思いが芽生え始めました。

自らの意思で初めての転職へ

2019年、思い切ってアメリカのバイオベンチャー・ギリアド・サイエンシズに常務執行役員として赴任しました。C型肝炎治療薬の成功で注目を集めたこの企業は、新型コロナ治療薬や抗エイズ薬を矢継ぎ早に発売し、少数精鋭でフットワークの軽い、すべてが「動きのある」組織でした。意思決定のスピード、個々の専門性の高さ、そして何より自分が直接、会社の成長に寄与できる実感に魅了されました。そこで私の次の目標は明確になります。

「社長になって、会社を動かしてみたい」

2023年の年が明ける頃、タイミングよくヘッドハンター経由で紹介されたのが、現在勤務しているインスメッドでした。当時で設立5年の社員80名の小さな会社でした。しかしその上市している製品や将来のパイプラインは、いわゆるFirst-in-Classと呼ばれる、いまだ既存の治療法がない希少疾患領域に希望をもたらすものばかり。人の命に直結する手ごたえと責任。これまでの経験がすべてつながった瞬間でした。

迷いはありませんでした。いくつかの面接と選考を経て、2023年、インスメッド日本法人の社長に就任しました。現在、社員数は160名まで増え、新製品の開発や売り上げを含め急成長しているアメリカの製薬企業の一つです(https://insmed.jp/about/message/)。

社長になったと同時に、山登りを始めました。頂上から広がる風景を見下ろすたびに、いつも思い出すのは、伊那谷のあの雄大な自然と、信州大学で過ごしたゆったりとした日々です。私は今、大学で学んだ専門とはまったく異なる業界に身を置いています。しかし、信州で得た「なんとかなるさ」の精神、そして、互いを尊重しながら肩の力を抜いて人と関われる空気感は、どんな困難な局面でも私を支えてくれました。

もちろんビジネスの世界では、合理性やスピードが重視されますが、それだけでは人も組織も動きません。最後にものを言うのは、人への共感や、見通せない未来に向かって一歩踏み出す勇気――そしてそれを可能にする「鷹揚さ」だと私は思っています。信州大学で育まれたその気質は、業界や職種を越えて、あらゆる場所で生きる力になる。「逆境は機会への扉」という信念と共に、私はそのことを、自分の人生を通して実感してきました。

また、学生時代から長い付き合いの妻も自身が働きながらよくここまで来てくれたものです。もう感謝しかありません。家事や子育ては二人で分担しよう、と言っていた新婚時代、結局は家を空けることの多かった私のために彼女の負担が増えたのですから。

仕事であれ、プライベートであれ、これからも信州の名に恥じない生き方を貫いていきたい。そして、信州大学の卒業生として、どこかで誰かの背中をそっと押せるような存在でありたいと願っています。私自身が、これまで多くの人にそうしてもらい、道が拓けていったように。

中村 誠 略歴
1987年 信州大学農学部畜産学科卒業
1987年 日本レダリー株式会社入社 営業本部 新潟営業所
1995年 日本レダリー株式会社入社 マーケティング本部 プロダクトマネジャー
1999年 ワイス株式会社 マーケティング本部 プロダクトマネジャー
2000年 Wyeth Pharmaceutical (米国ペンシルバニア州) 出向
2002年 ワイス株式会社 新製品企画室 室長
2009年 同社リウマチ事業本部 事業本部長
2010年 ファイザー株式会社 スペシャリティーケア事業本部
マーケティング統括部長
2011年 同社眼科領域事業部 統括部長
2012年 同社 取締役 執行役員 オンコロジー事業部門長
2019年 ギリアド・サイエンシズ株式会社 常務執行役員 肝臓領域事業本部長
2023年 インスメッド合同会社 社長